時事問題
2021年春、新型コロナ禍とワクチン接種に関するfacebook友だちの発言に触発されて、いま世界で起こっていることに注意を向けるようになった。
情報源はもっぱらweb(組織)、blog(個人)、sns(社会)である。過去五年、実社会・ネット社会から遠ざかっていたため、我ながら呆れるほど世情に疎くなっている。
それ故に、新鮮で驚くような情報を次から次へと発見する。コロナ、ワクチン、五輪、反日、中国の野心と国際摩擦、米中対立、日本の弱腰外交と安全保障(尖閣諸島と台湾有事)、衰退する旧マスコミの偏向報道、内閣府のファシズム傾向、言論封殺……。
多様な情報源に触れ、咀嚼し、分析し、記事に纏める気力が衰えているので、情報に偏りがあるかも知れない。それを検証する気力もないので、情報の参照先をリストアップし、自身の備忘録として思いつくままに書いている。
当初は、新型コロナ禍やワクチン接種の情報、政府・自治体など公的機関の発表内容、地上波TVニュース(NHK、民放、昼のワイドショーなど)に納得できないことや矛盾、事実の歪曲があることが気になった。
※2021年8月3日 ほかの記事と重複があり整理必要
▶︎不都合な真実と重複(整理予定)
- 表現の自由を巡る自民党と百田尚樹氏周辺の倒錯、大西議員のさらなる問題発言 ❌渡辺輝人弁護士(京都弁護士会所属) 2015/6/30(火) 17:26
〜論点がすり替えられていて、何を主張したいのか不明。「言論の自由」云々をするのではなく、発言内容の妥当性を論議すべきである。2017の「ニュース女子」BPO問題でも同じことが繰り返された。BPO委員たちは一体何を審理したのか?虚偽、捏造、偏向報道をすることが「表現の自由」を大義名分にして擁護されるという妙なことが起きている。※花田紀凱氏の発言記事は削除されていた。これは言論封殺か? - 報道規制を語らう、不自由で非民主的な自由民主党 ❌江川紹子ジャーナリスト・神奈川大学特任教授 2015/6/28(日) 0:14
〜「だが、言論の自由を重んじる社会では、言論には言論で対抗するのが、原則だろう。自由な議論の中で、事実に反する見解や陰謀史観の類いは淘汰されたり、人々に信頼されなくなっていく。ところがSWCは、ひたすら広告ボイコットという実力行使で相手を威圧し、ひとつのメディアを消滅させた。」この効果に味を占めたSWCは、1999年「週間ポスト」、2021「小林賢太郎」事件を起こした。
百田尚樹氏の発言:
「反日とか売国とか、日本をおとしめる目的で書いているとしか思えない記事が多い」
「沖縄の二つの新聞社は絶対つぶさなあかん」
「私が本当につぶれてほしいと思っているのは、朝日新聞と毎日新聞と東京新聞です」(元記事は削除)
こうした発言が「マスゴミ」から叩かれている。おかしな世の中になった。批判されたマスゴミが「表現の自由」を持ち出して自己弁護している。江川氏も前半は説得力のある真っ当な意見だが、後半ではマスゴミ擁護論になって問題がすり替わる。
詰まるところ当事者(マスゴミを生業とする人々)の意見は鵜呑みにできないということ。
⚠2024/02/25 この記事が地上波TVからの(十数年前までの)洗脳が解け始めるきっかけになった。ネットや知人から前向きに情報を収集し始めて「何かがおかしい。信じがたいことが世界及び日本社会で起こっている」という不安が目覚めた。それから二年半が経った。分からないことだらけであり、次から次へと疑問が湧いた。
従来からのネットニュースはその情報源を確かめないと鵜呑みにはできないということは過去のアメリカ駐在員時代(1980年代)に学んだ。アメリカでの新聞TVで報道されている内容と日本で報道されている内容に食い違いがあったから、アメリカで得た情報を日本に報告するときには、背景と是正(見解)を示すためにも裏情報をあさる必要があったから気づいた。
その頃は日米間での情報ギャップが大きく、日本に伝わるスピードが分野によっては数年のズレがあった。したがって、日本での情報が古いために認識ギャップが起きていた。だから新センタ時事情報を伝える価値があり、駐在員の存在意義があった。1980年代中頃のビジネス市場ではとくにCAD/CAM分野が年率40%という、今では考えられないほどの急成長を遂げていた。日本での情報把握が遅れていることに気がついたのは、日本出張時に三年前に私が書いた報告書がまだ読まれており、その内容について質問を受けたからだった。
日本での情報把握が遅れた要因のひとつは、今日のようなインターネットやSNSがなかったからであるが、もう一つは米国の先端技術や最新の社会現象を日本に報告する新聞TV記者(特派員)が少なかったからだろう。特派員がWDCやシリコンバレイにいても、カバーする専門分野が限られた。カバーしていても情報を集め分析するために必要は基礎知識がなかったりする。だから、各業界から派遣されている駐在員の間で情報交換することが必要だった。私はITやCAD/CAM業界に関与していたから、当時の朝日新聞や日経新聞の特派員たちから質問されることもあった。逆に一般社会や経済に関するニュースについては彼らから教えてもらうこともあった。
当時の日本はまだインターネットというコトバがIT従事者の間でさえ知られていなかった。テキストベースの通信(パソコン通信)がIT業界やオタクたちに普及し始めたのは1980年代末のことだった。一般社会への普及にはさらに十数年かかった。
私が所属していた会社ではじめてアメリカ(現地法人)と日本(研究所)をインターネットで接続する実験を行ったのは1887年頃だったと記憶する。アメリカでは大学研究機関を中心としたARPANET(資金は国防省DARPA)があった。今日のインターネットやGPS(カーナビやスマホの位置情報)はもともとは軍用技術だった。それが民間に開放されたのが1980年代末で、私の最初の駐在員時代と重なっていた。ITに関わらず、宇宙や戦闘機、原子力、核融合といった機微な施設を見学する機会もあった。もちろん前もって米政府・国防省の特別許可が必要だった。
※ここで話が逸れるが、思い出を書いておこう。米政府とくに国防関係の先端技術の施設見学や関係者との会見に私が絡んだのは、日本からの要人の旅の手配や運転手、通訳補助、小間使いの役目を仰せつかったということで、最初はとても個人で能動的にアレンジすることはできなかった。まず英会話が拙かったという致命的欠陥があった。
この頃の元上司の中で一番多く接したのがKNさん(入社時の直系部長、元F社取締役)とSMさん(防衛専門の元FSI社長)である。お二人とも先端科学技術分野の造詣が深く好奇心旺盛だった。私も理系出身で科学技術系の仕事が多かったのでお相手も気楽で楽しかった。KNさんは入社時「N天皇」と異名をとるほど有名で、F社の三傑(別途言及)でもあった。SMさんも直系の上司だった時があるが、出身大学の先輩という親近感があった。
KNさんは毎年春に米国視察に来られた。航空会社はパンアメリカン、ホテルはHILTON(うろ覚え)、食事は中華料理というのが定番だった。駐在員があれこれ迷わず忖度しないようにとの配慮だと理解した。いわゆる「お偉いさん」ではあるが、そんな気を使う人ではなかった(気を使わない私というべきかな?)ので、気楽にお相手ができ楽しかった。
(中断)
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